新撰組ゆかりの名所(東京23区内)をご紹介!

 

東京23区内の新選組ゆかりの地をご紹介!

東京の新選組ゆかりの地 新選組は「誠」の旗を目印に、いつの時代も衰えない人気で、沢山の人々がゆかりの地を訪れています。そんな新撰組のゆかりの地が東京都内に存在するのでご紹介します!本記事でご紹介する新撰組のゆかりの地は「結成初期」と、「末期」が中心となります。

(この記事は約4分で読めます)

 

 

東京の新選組ゆかりの地

 

新選組とは?

新撰組とは、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織を指します。

 

新撰組が出来たきっかけは、京都にいる江戸幕府の将軍を守ってくれる人材を募っていたのが理由でした。当時、幕府を倒そうとする武士達が沢山京都に集まっていた為、将軍を守る必要があったのです。この為、剣術などが長けている人材を募集した結果、農民出身で後に新撰組のトップになる近藤勇や、新撰組のNO.2になる土方歳三が応募しました。

 

これが、新撰組のもとになった「壬生浪士組」の誕生のきっかけとなります。その後、文久2年(1863 年)におこった「八月十八日の政変」での功績が認められ、名前を「壬生浪士組」から「新撰組」へ変更する事になりました。また翌年の「池田屋事件」では幕府を倒そうとする長州藩の多くの志士を討ち取り、人々の注目を集めました。そして農民出身の隊士が多かった新撰組は慶応3年(1867年)ついに幕府の家臣になる事に成功します。

 

しかし当時の幕府は、味方だった薩摩藩が長州藩と手を結んで力が弱体化しており、大政奉還によって朝廷に政治を行う権利を返します。しかし薩摩藩や長州藩といった新政府は幕府を徹底的に潰すために1868年(明治元年)「鳥羽伏見の戦い」をしかけます。

 

その為、新撰組も新政府と戦う事になりますが、この時近藤勇や土方歳三といったトップの隊士が亡くなった為、残念ながら短くも太い歴史に幕を下ろすこととなりました。

 

それでは東京幕末歴史観光を楽しみながら彼らの激動の人生を追いかけてみましょう。

 

いざ行かん!新撰組始まりの地!牛込柳町・試衛館跡!

牛込柳町の試衛館跡

 

牛込柳町に存在する試衛館跡は新撰組の始まりの地なので東京幕末歴史観光を楽しまれる際は必ず寄りましょう!試衛館は1839年に、天然理心流三代目の近藤周助が創設した道場で、近藤家の住居も兼ねていました。現在では試衛館には跡地としての目印で碑が立っているのみですが、当時この場所に毎日3〜40人が稽古に来ました。その中には土方歳三や沖田総司、井上源三郎もいました。

 

また門弟以外に様々な流派の剣士も集まりました。仙台藩を脱藩した北辰一刀流の山南敬助。同じく北辰一刀流・藤堂平助。伊予松山脱藩の宝蔵院流・原田左之助。松前脱藩の神道無念流・永倉新八。新選組の中核となるメンバーがこの試衛館で交流を深めていました。

 

試衛館跡

天然理心流は江戸の道場で武術を教える他、多摩への出稽古も行っていました。道場のある豪農の家を巡りながら、近在の農民を集めて指導するのです。近藤勇の代わりに沖田総司が行くこともありました。

 

沖田総司は教え方が乱暴で短気だったので、門弟たちは近藤勇よりもずっと恐れていました。稽古が終わると、道場のある家の主人が門弟たちと頼山陽(らいさんよう)の「日本外史」や「日本政記」などを読み合わせ、解説して聞かせたりもしました。農民の身でありながら文武両面の修練を怠りなく行っていた為、鍛錬後、たくあんを肴にお酒を飲みながら、時事問題を語り合う場が設けられていました。世の中が攘夷だ、佐幕だと騒がしい折、議論はさぞかし白熱し、盛り上がったことでしょう。

 

試衛館跡の所在地と行き方

住所 〒162-0061 東京都新宿区市谷柳町25
最寄り駅 都営大江戸線『牛込柳町』
アクセス 都営大江戸線『牛込柳町』を出てすぐ前の通りを左折します。その通りを渡った右手に『柳町病院』が見えてきます。この病院の裏に試衛館跡の碑とその当時にもあったと言われる稲荷神社が建っています。

浪士隊結成の地、小石川伝通院(傳通院)

小石川伝通院(傳通院)

 

東京幕末歴史観光の際には伝通院にも立ち寄りましょう。幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭「処静院」(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まりました。

 

新撰組の前身となる浪士隊結成により、希望に満ちたスタートを切れることを隊士の皆は夢見ていたことでしょう。現在は伝通院手前の長い塀の前に処静院跡の石柱と浪士隊結成の地処静院跡の案内板が立っています。

 

また、慶長8年(1603)徳川家康が生母「お大」をこの地に葬った後に、堂宇を建立し伝通院となりました。伝通院はお大の法名から由来します。将軍家の拠り所としても厚く、浄土宗の関東18檀林の一つで、常時1000人の学僧が修行していました。境内には、お大の方、「千姫」(豊臣秀頼妻・2代徳川秀忠の長女)をはじめとして徳川家ゆかりの女性の墓が数多くあります。

 

小石川伝通院(傳通院)の所在地と行き方

住所 東京都文京区小石川3-14-6
連絡先 TEL:03-3814-3701
最寄り駅

・東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園」駅より徒歩10分
・都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅より徒歩10分

バス停 都バス都02、都02乙、上69「伝通院前」より徒歩2分

沖田総司終焉の地 今戸神社

今戸神社

 

今戸神社は新選組・沖田総司の終焉の地とも言われています。、結核を患っていた沖田総司を診ていた医師の松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことが由来となっています。西軍が江戸を占拠していことも関係しています。

 

その患者の中には新選組を離れ一人労咳の療養に専念していた沖田総司の姿もありました。沖田総司の症状はかなり重い状況でした。余命いくばくもない沖田総司が、毎日庭先にやってくる黒猫が気になってしょうがなく、切ろうと思って刀を握りますが、猫はまった動ぜず逃げもしない姿をみて面倒を見てくれる老婆に「バアさんオレはもう黒猫が切れない」と嘆くエピソードが有名で、稀代の名剣士が殺気も醸し出せなくなったと伝えられています。死亡年月は慶応3年(1887年)5月30日享年25とも27との説もあります。奇しくも近藤勇の刑死からほぼ1ヶ月後のことでありました。

 

今戸神社の所在地と行き方

住所 東京都台東区今戸1丁目5?22
連絡先 TEL:03-3872-2703
最寄り駅 地下鉄・浅草駅より徒歩約15分
バス停@ 浅草駅から台東区循環バス『北めぐりん』、または都営バス東42乙系統に乗車し、リバーサイドスポーツセンター前停留所下車・徒歩1分
バス停A 浅草駅などより都営バス東42甲系統・浅草七丁目より徒歩3分

近藤勇と新撰組隊士供養塔

近藤勇と新撰組隊士供養塔

 

JR板橋駅東口をでてすぐの場所に近藤勇と新撰組隊士供養塔が設けられていますので、東京幕末歴史観光の際には立ち寄って下さい。これは永倉新八が発起人となって、旧幕府の典医・松本順の協力を得て明治9年(1876年)に作られました。近藤勇はもちろん、土方歳三をはじめとした合計110名の隊士達の名前が刻まれています。他にも新撰組の縁の者達も祀られています。

 

この板橋・滝野川は近藤勇の最期の地です。近藤勇は、慶応3年に幕臣として取り上げられました。しかし鳥羽・伏見の戦いでは肩に負った鉄砲傷のため、新撰組の指揮を取ることができず敗れた後に慶応4年(明治元年)江戸に戻ります。同年3月、幕府の命を受け甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を編成して、甲府へ向かう時、その名を「大久保剛」と改名します。

 

しかし、甲州勝沼の戦いでも敗退し、この直後に「大久保大和」と更に改名します。そして、五兵衛新田で兵を集め、4月には下総流山に屯集しましたがまた敗戦。そして投降。当初は「大久保大和」と名乗って、徳川家公認の治安隊であると主張しましたが、近藤勇の面体を知る者がおり、見破られ板橋宿で斬首刑になされました。

 

近藤勇の供養塔

 

投降時の近藤勇の傷は、高台寺党の生き残りにより伏見街道墨染のあたりで銃撃されたもので、かなり重傷だった模様で、会津へ向かうための足手まといになるという考えから、切腹を考えた近藤勇に土方歳三が時間稼ぎのために投降をすすめ、取り調べの席で自説を説く時間を与えようとしました。

 

そして近藤勇の投降後、土方歳三は勝海舟のもとに手紙を出し、近藤勇の救命を要請しましたが、勝海舟は「もう遅い・・・」と言って動きませんでした。慶応4年(明治元年)4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首は京都三条河原に晒され、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されました。

 

近藤勇と新撰組隊士供養塔の所在地と行き方

住所 〒114-0023 東京都北区滝野川7丁目8?10
最寄り駅 JR板橋駅東口すぐ

沖田総司の魂が眠る専称寺

専称寺

 

沖田総司の墓は六本木ヒルズ近くの専称寺にあります。六本木ヒルズで買い物をした後、東京幕末歴史観光ついでにゆっくりと参拝したい!ところですが、残念ながら墓地には入れません。

 

年1回の「総司忌」の日にしか公開されていないからです。熱烈なファンが墓石を削ったりしたのが一つの理由です。しかし塀の外から遠目に墓を見ることはできます。本堂の裏手に回ると、墓地の入口から2列目の道の右側にある、赤茶色の屋根に覆われた小さな墓石がそれです。「賢光院仁誉明道居士」という戒名が刻まれており、入口から見て沖田総司の墓より手前側には、沖田家先祖代々の墓が立っています。

 

沖田総司は幼名を宗次郎といい、幼い頃から剣に優れ、12歳の時には指南役との試合に勝ったほどでした。19歳で新撰組に入り、近藤勇の義弟になりましたが、天然理心流の天才的剣士で隊長以上の実力を持っていたと伝えられています。労咳にかかり、儚い人生を送った天才を偲ぶ女性ファンは大変多く、「総司忌」の日にはお墓には行列が出来るほど。沖田総司はいまだに多くの女性達から愛されてることがわかりますね。

 

※注意点:
専称寺では、「総司忌」についてのイベントについて一切把握していないので、専称寺には絶対に電話をしないでください。 お問い合わせは、必ず「新選組友の会」へ。

 

専称寺の所在地と行き方

住所 東京都港区元麻布3-1-37
最寄り駅 地下鉄六本木駅下車・徒歩8分

 

まだまだある!東京近郊にも新撰組ゆかりの地が!

実は西東京にも新撰組縁の地は残っています。日野市立「新選組のふるさと歴史館」、近藤勇と土方歳三を顕彰する石碑が置かれた高幡山金剛寺など。機会を見てご紹介します。

 

以上、東京23区で新選組ゆかりの地を巡る!【東京幕末歴史観光記】...という話題でした。

 

 

新選組ゆかりの愛刀について

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