徳川慶喜(一橋慶喜)ゆかりの地を観光!お墓もご紹介

 

徳川慶喜(一橋慶喜)

 

日本史史上最後の江戸幕府第15代征夷大将軍である徳川慶喜についてご紹介します。徳川慶喜といえば徳川最後の将軍として、大政奉還を行い江戸城無血開城を実現させた幕末のキーパーソン。

 

2018(平成30年)年放送の大河ドラマ『西郷どん』にて西郷隆盛のキーパーソンとして登場する徳川慶喜(一橋慶喜)について、興味を持たれている方も多いのではないでしょうか?

 

今回はそんな彼の人物像と、東京都内のゆかりの地についてご紹介します。

 

 

目次

 

(1)徳川慶喜(一橋慶喜)はとは?実は箱入り息子だった!?

1837年(天保8年)9月29日、徳川斉昭の七男として江戸に生まれました。徳川斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という教育方針の為、9年間を水戸藩邸で過ごしました。

 

その後、1847年(弘化4年)8月に幕府から一橋徳川家相続の会議への出席を命じられ江戸に出向きました。

 

(1-1)安政の大獄の責任を取り隠居生活

1859年(安政6年)徳川慶喜は「安政の大獄」の責任を取る隠居生活しました。

 

安政の大獄とは日米修好通商条約へ諸策に反対する者たちを弾圧した事件です。井伊直弼が調停の許可を得ないまま行ったにも関わらず、徳川慶喜は部下の責任を取る形となりました…

 

(1-2)再び一橋家の当主になり、その後将軍になる

1860年(安政7年)桜田門外の変にて井伊直弼で暗殺されると謹慎・隠居が解除されました。

 

1862年(文久2年)再び一橋家の当主に返り咲き、14代将軍の徳川家茂の後見人となりました。後見人時代の際には文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行いました。

 

徳川家茂が亡くなると、1866年(慶応2年)ついに15代将軍となりました。

 

(1-3)大政奉還と戊辰戦争

1867年(慶応3年)徳川慶喜は大政奉還を行いました。水戸藩出身の徳川慶喜は母方が皇族ということもあって尊王思想を持っておりましたが、大政奉還に関して徳川慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、徳川政権存続を模索していました。

 

緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており、大政奉還による政治体制の再構築はその打開策でありました。

 

しかし1868年(慶応4年)大政奉還の後に権力を奪われた旧幕府軍の新政府に対する暴動が起こります。大政奉還の後、新政府は「王政復古の大号令」を発し、天皇中心の政治に戻し、旧幕府(徳川家)の影響力を排除。

 

徳川慶喜に対して役職を辞任することを命じました。これに対して強く反発した旧幕府軍が京都近くの鳥羽・伏見で新政府軍と武力衝突して戊辰戦争が始まりました。この時徳川慶喜は風邪を引いて大坂城で臥せっていましたが、敗戦が決まると12日に江戸に帰りました。

 

(1-4)豊かな余生

在位わずか一年で幕府が崩壊し死罪の危機でしたが間一髪、勝海舟と西郷隆盛の交渉で免れました。

 

1869年(明治2年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き静岡に居住しました。従来の将軍達とは違い政治的野心は全く持たず、豊富な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれました。

 

1913年(大正2年)11月22日、急性肺炎にて死去しました。享年77歳。実に、徳川歴代将軍としては最長命の人生でありました。

 

(2)大政奉還ゆかりの地、上野寛永寺

1867年(慶応3年)10月15日、外国からの干渉を考慮して大政奉還し、将軍でなくなった徳川慶喜は、薩摩長州の挑発にも乗らずに静観していました。
しかし12月9日の王政復古の大号令では邪険な扱いを受け、江戸では薩摩が狼藉を働いて好き放題に幕府を挑発。さらに年末には江戸城に放火されるなど色々な状況が重なり、とうとう戦うことを決意します。

 

翌年1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まりますが、5日に新政府軍に「錦の御旗」が登場すると、徳川慶喜は尊王攘夷思想を持っていた為、朝敵になることを避けました。徳川慶喜の意思は硬く、1868年(明治元年)2月12日に朝廷に逆らう姿勢はないとの意思表示として、上野寛永寺大慈院へ隠居しました。

 

上野寛永寺

江戸城無血開城の際に徳川慶喜が蟄居した上野寛永寺。現在の寛永寺は明治になってから復興されました。在りし日は上野公園全体が境内でした。
施設名: 上野寛永寺
住所:〒110-0002 東京都台東区上野桜木1丁目14?11
問い合わせ:TEL 03-3821-4440

 

(3)徳川慶喜(一橋慶喜)が眠る墓がある谷中霊園

徳川慶喜(一橋慶喜)が眠る墓がある谷中霊園

徳川慶喜が眠る谷中霊園。上野寛永寺からとても近いです。
施設名: 谷中霊園
住所:〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目5?24
問い合わせ:TEL 03-3821-4456

 

歴代の将軍(徳川家康と徳川家光は除く)は港区芝の増上寺か寛永寺に埋葬されていますが、徳川慶喜は寛永寺谷中霊園内に埋葬されています。徳川慶喜は遺言に明治天皇に感謝の意を示すため、自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう残しました。その為、徳川慶喜の墓は谷中霊園に皇族の墓と同じような円墳型をしております。

 

また徳川慶喜の墓の手前には勝精(かつくわし)の墓もあります。勝精とは徳川慶喜の十男であり、勝海舟の養子となった人物です。洗足池にある勝海舟のお墓ではなく、実父である徳川慶喜の近くで眠っています。墓所は柵で囲まれ入れないようになっていますので、注意が必要です。

 

 

(4)徳川慶喜の人柄とは?徳川家康の再来と呼ばれた男

「徳川家康の再来」と呼ばれた徳川慶喜の人柄についてご紹介!

 

学問にも優れていた上に話上手。多趣味・多芸であったと言われる徳川家康と同じく何事も器用にこなしました。そんな徳川慶喜の人柄を示すユニークなエピソードを紹介します。

 

(4-1)厳しく育てられた幼少期

幼少期、徳川慶喜は厳しく育てられました。徳川斉昭の教育は熾烈を極め、衣食を質素なものに制限させるといった軽いものから、いたずらをした際は火傷を負うほど灸を据える、座敷牢に閉じ込めて食事をさせない、寝相の悪さを直すため、枕の両端にカミソリを立てるなど、現代では問題になる程非常に厳しいしつけを受けて育ちました。

 

(4-2)将軍職につくことを拒み続けた!?

1853年(嘉永6年)将軍継嗣問題が発生します。黒船来航の最中に将軍・徳川家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で世継ぎをもうける見込みがない為、1858年(安政5年)に大老となった井伊直弼が指揮し、将軍継嗣は徳川慶福と決定しました。

 

当時、徳川慶喜本人は将軍となることに乗り気ではなかった為「骨が折れるので将軍になって失敗するより最初から将軍にならない方が大いに良い」という内容の手紙を徳川斉昭に送っています。

 

(4-3)交渉のためなら奇想天外な一面も

薩摩藩による朝廷の主導を警戒した徳川慶喜は、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城らを罵倒し、さらに中川宮に対して「島津からいくらもらっているんだ?」などと暴言を発し体制を崩壊に追い込むなど、傍若無人で手段を選ばない交渉を行うようになりました。

 

禁門の変において徳川慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、五摂家の鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は、歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と刀を交えました。また長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、徳川慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せました。

 

(4-4)「豚一さま」

徳川慶喜は「豚一殿」というあだ名が付くほど豚肉が好きでした。「一」は慶喜が一橋家の出身であることから「豚肉好きな一橋さま」という意味です。当時、日本人は公には獣肉を食べなかった為、堂々と食べる慶喜を見て、世間の人は驚き皮肉を込めてこのあだ名を呼びました。横浜の港が開放されると、いち早く肉を取り寄せていたと伝えられています。

 

(4-5)火消しの親分との交流

徳川慶喜は町人との交流も盛んでした。特に「を組」(火消し)の親分・新門辰五郎とは親子ほど歳が離れているものの仲が良く、側に置き「ジジイ」と呼んだことも。また徳川慶喜は新門辰五郎の娘であるお芳を妾としています。

 

新門辰五郎は1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いの後に徳川慶喜が大坂から江戸へ逃れた際、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し無事送り届け、徳川慶喜の謹慎している上野寛永寺の警護に当たっています。

 

(4-6)多趣味な一面も!

徳川慶喜は非常に多趣味な人物でした。江戸幕府はフランスから援助を受けていた為、徳川慶喜はフランスかぶれであり、フランス料理も食べていた程!

 

無血開城以降は静岡に住み、カメラを持ってよく屋外に撮影に出かけ、当時人気だった写真雑誌『華影』にもたびたび投稿していましたが、なかなか採用されませんでした。また顕微鏡を覗くことが好きで、大好物のきなこを拡大して見たものの、保存状態が悪かった為菌が繁殖しており、それ以降徳川慶喜はきなこを食べることが出来なくなってしまいました。

 

アウトドアも大好きで、狩猟や弓道、サイクリングなど多岐に渡り、サイクリングの際美人に見とれ看板に激突するなど逸話が残されています。

 

(4-7)徳川慶喜は日本企業社会の父?

様々なユニークなエピソードを持つ徳川慶喜ですが、日本企業社会の父とも言えるでしょう。第一国立銀行や、東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わった渋沢栄一を見出したのはなんと徳川慶喜なのです。

 

裕福な農家に生まれた渋沢栄一は尊皇攘夷運動活動をしていましたが、江戸遊学の折より交際のあった徳川慶喜の謀臣・平岡円四郎に推薦され、徳川慶喜に仕えることになります。

 

渋沢栄一は徳川慶喜に大変気に入られ、徳川慶喜の弟・徳川昭武がパリ留学に行くことになると、これに着いていくことに。この時の経験が後に日本の実業界の父と言えるほど数多くの会社を設立し、今でも多数の会社が当時のまま(合併で名称変更もあり)大企業として存続しています。即ち、徳川慶喜は間接的に今の日本企業社会を作らせたことになります。

 

渋沢栄一も、面倒を見てもらった徳川慶喜に深く感謝し、後年、徳川慶喜に対する名誉を払拭すべく、徳川慶喜の協力の下、幕末当時の回顧録を作成しました。その甲斐もあり、徳川慶喜の名誉は回復されました。

 

現在埼玉県では渋沢の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与しています。

 

(5)徳川慶喜の妻について

徳川慶喜の正妻は一条美賀子という人物で、1894年(明治27年)乳癌で死去するまで数奇な生涯を送りました。

 

当初、徳川慶喜は関白・一条忠香の娘・千代君(照姫)と婚約していましたが、婚儀直前に千代君は天然痘に罹患したため代役として立てられたのが一条美賀子でありました。徳川慶喜が将軍後見職となった後長い別居生活に入り、明治維新後も徳川慶喜は静岡、美賀子は東京の一橋屋敷という別居が続きました。

 

また徳川慶喜は、側室である新村信と中村幸との間に10男11女に恵まれ合計21名の子供を持ちましたが、正妻である一条美賀子との間には一子が生まれたものの、すぐに死亡しています。側室といえば仲違いをするものですが、徳川慶喜と正妻、側室は大変仲がよく3人で川の字で就寝したり、側室の二人も21名の子供達を差別することなく愛し、子供達はどちらの親から産まれたか分からない程だったと伝えられています。

 

(6)写真家をはじめとした徳川慶喜の子孫達

徳川慶喜の血筋は現在も続いています。

 

(6-1)写真家として活躍した徳川慶朝さん

徳川の末裔であり惜しくも2017年(平成29年)9月25日に亡くなってしまった徳川慶朝さんは、写真家として本田技研工業グループ傘下の広告制作会社東京グラフィックデザイナーズに20年間勤務し、広告写真の分野で活躍しました。独立後はフリーの写真家として主に徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を中心に撮影していました。

 

(6-2)多方面で活躍する徳川の子孫達

また「徳川将軍家」の末裔で翻訳家の徳川家広さん、「水戸徳川家」の末裔の徳川斉礼さん、「尾張徳川家」の末裔で実業家の徳川義祟さん、「紀州徳川家」の末裔で建築家の徳川宣子さんもそれぞれ多方面で活躍しています。

 

(7)東京観光に宿泊するのにオススメのホテル

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