西郷隆盛と関係もある勝海舟ゆかりの地を紹介!

 

勝海舟

 

2018(平成30年)年放送の大河ドラマ『西郷どん』にて西郷隆盛のキーパーソンとして登場する勝海舟について、興味を持たれている方も多いのではないでしょうか??

 

今回はそんな彼の豪快で人情味溢れた人生と、東京都内のゆかりの地についてご紹介します。

 

 

目次

 

(1)勝海舟とは?

1823年(文政6年)〜文武両道〜

勝海舟は1823年(文政6年)1月30日に現在の墨田区両国に生まれ、幼少時に11代将軍、徳川家斉の孫である一橋慶昌の話し相手として江戸城へ招かれました。島田虎之助から剣術を学び免許皆伝。その後、禅や蘭学/オランダ語を学び後年に備えました。

 

1853年(嘉永5年)〜31歳にして才能開花〜

勝海舟は31歳に転機が訪れます。ペリー艦隊(黒船)が来航し開国を要求、幕府は海防に関する「海防意見書」を幕臣から町人など身分を問わずに多岐に渡り依頼します。

 

この時、勝海舟の意見書が当時の老中の目にとまり、運命の歯車が動き出します。勝海舟は「目付海防掛」という、外国船の渡来にみる対外的危機に対応し海岸の防御を目的とする役職に就きました。

 

その翌年には長崎の海軍伝習所に入門しました。勝海舟自身は海軍知識がほとんどない上、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていました。しかし幕府の期待に応える為(8月20日の佐久間象山宛の手紙より)、以降3年半に渡り勉学に勤しみました。

 

1860年(安政6年)〜ついにアメリカの土を踏む〜

その頃、1860年(安政6年)幕府は日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)交換のため、遣米使節をアメリカ・サンフランシスコへ派遣します。護衛を目的とした咸臨丸(かんりんまる)も渡航。勝海舟は補充員として乗船しました。

 

この船には通訳のジョン万次郎、福澤諭吉も乗船し、豪華なメンバーとなりました。
アメリカでは技術の進歩に驚き、さらに社会制度の違いを知りました。この事がきっかけとなり、日本の未来についての考えが生まれたといわれています。

 

1867年(慶応3年)〜日本の夜明け、大政奉還へ向けて〜

1867年(慶応3年)徳川慶喜が大政奉還を行います。しかし、1868年(慶応4年)に鳥羽・伏見にて旧幕府軍と薩摩藩との間で戦乱が勃発し、薩摩藩・長州藩を中核とした官軍・新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦う戊辰戦争へと発展することとなります。

 

1868年(慶応4年)旧幕府は勝海舟を呼び戻し、軍事総裁として全権を委任します。勝海舟は江戸の町が戦火となり、さらに他国からの植民地化が行われることを危惧した為、幕府と維新志士の間に入り、早期の停戦と江戸城の無血開城を主張し無事成功しました。

 

1899年(明治32年)〜閃光のような生涯に幕を閉じる〜

明治維新後も旧幕臣の代表格として、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿など様々な職務を任され、晩年の人生は、徳川慶喜を明治政府に赦免させることにも成功。1899年(明治32年)脳溢血で生涯を閉じました。享年76歳でした。

 

 

(2)維新志士からも信頼された勝海舟

幕臣からは毒舌の為嫌われることが多かった勝海舟ですが坂本龍馬、西郷隆盛と言った敵対していた維新志士からは高い評価を集めています。

 

その中でも有名なエピソードと、後縁を交えながらご紹介します。

 

(2-1)坂本龍馬、勝海舟の弟子になる

勝海舟と坂本龍馬の像

写真は有志の方たちの手によって造られた勝海舟と坂本龍馬の像。二人の視線の先には、日本の夜明けを見つめているようです。
施設名: 勝海舟・坂本龍馬師弟像
住所:〒107-002 東京都港区赤坂6-7-17

 

勝海舟と坂本龍馬は師弟関係にありました。1862年(文久元年)12月9日、幕府政事総裁職の松平春嶽から幕府軍艦奉行並の勝海舟への紹介状を受けた坂本龍馬は、この赤坂本氷川坂下にある勝海舟の屋敷を訪れ、入門しました。

 

後の明治23年に勝海舟本人が語った「追賛一話(ついさんいちわ)」では坂本龍馬と千葉重太郎が開国論者である勝海舟を成敗する為に屋敷を訪れ、勝海舟が話した世界情勢や海軍の必要性に坂本龍馬が感服しその場で門人になったという説があります。

 

その際、知識の広さやあたたかい人情などに驚き、家族に勝海舟のことを「日本第一の人物」「天下無二の軍学者」と手紙で紹介しています。

 

また坂本龍馬は勝海舟の下で海軍操練所の仕事を続けるために2度脱藩をしています。2度目の脱藩は友人や親族も同罪と見なされるほどの重罪だったので、そうしてまでも勝海舟と働きたいという坂本龍馬の揺るぎない想いが伝わります。

 

勝海舟邸跡

施設名: 勝海舟邸跡
住所:〒107-0052 東京都港区赤坂6丁目10?41

 

赤坂本氷川坂下にある勝海舟の屋敷跡です。勝海舟は1859年(安政6年)から1868年(明治元年)までをこの地で過ごしました。1862年(文久2年)12月、土佐脱藩浪士の坂本龍馬が、勝海舟に面会するためにこの地を訪れました。

 

(2-2)西郷隆盛と〜無血開城に向けて〜

上野公園の西郷隆盛像

写真は上野公園の西郷隆盛像
施設名: 西郷隆盛銅像
住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園
営業時間:AM5時〜PM23時

 

1868年(慶応3年)勝海舟が45歳の時、戊辰戦争の際には、軍事総裁として旧幕府を代表し、新政府軍のリーダー西郷隆盛と相談して江戸城無血開城を決めます。

 

無血開城とは戦闘を行わず、守り手が攻め手に城を明け渡すことを指します。まず、山岡鉄舟を駿府に滞在していた西郷隆盛との交渉に向かわせ基本条件を整えました。その後、3月15日に予定されていた江戸城総攻撃の直前に勝海舟が西郷隆盛と会談。

 

高輪の薩摩藩邸で2回、交渉が行われて江戸城開城と徳川宗家の今後についての交渉が行われました。そして江戸城下での市街戦は回避されました。

 

(2-2-1)池上本門寺で交渉を申し込む

池上本門寺

施設名: 池上本門寺
住所:〒146-8576 東京都大田区池上1-1-1
問い合わせ:TEL 03-3752-2331

 

1868年(慶応4年)西郷隆盛を参謀とする新政府軍は3月12日この本門寺に本営を置きました。同時に勝海舟が本門寺に赴き、西郷隆盛に今後の会談を申し入れたといわれている場所がこちらにある「松濤園」です。

 

「松濤園は」、本門寺旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小掘遠州によって造園されたと伝えられています。作庭に当たり、湧き水が出る池を中心に、池の周りには洲浜・織部井戸・船付場・鶴島・亀島・魚見岩・太鼓橋を設け、滝口方面に渓流と渓谷・沢渡り・滝見橋・松濤の滝などが造られています。注意点として、一般公開期間以外に入園は出来ません。

 

(2-2-2)高輪では予備交渉

3月13日に高輪で開催された第一回目の会談は予備交渉でした。降伏条件である徳川慶喜の処遇確認のみで、核心には触れず、質疑応答のみで終了しました。

 

(2-2-3) 愛宕神社で日本の行く末を語り合う

予備交渉が終了後、勝海舟と西郷隆盛は虎ノ門の愛宕神社で、日本の行く末について語り合いました。愛宕神社は江戸の街を一望出来た場所。 西郷隆盛と勝海舟がここから江戸の街を眺め、「戦火で包むことは絶対に避けよう」と話合ったと言われています。

 

愛宕神社

施設名: 愛宕神社
住所:東京都港区愛宕一丁目五番三号
問い合わせ:TEL:03-3431-0327/FAX:03-3431-0341

 

勝海舟と西郷隆盛はここから江戸の街を見ながら、未来の開拓を決意したのかもしれませんね。
愛宕神社は長く続く石段と、色とりどりの鯉を観ることが出来る風流な場所でもあります。

 

(2-2-4)三田でついに無血開城へ

西郷南洲・勝海舟会見の地

施設名: 西郷南洲・勝海舟会見の地
住所:〒105-0014 東京都港区 芝5丁目33

 

翌日3月14日に三田で開催された第2回目の会談で各種条件が決定しました。勝海舟は新政府軍参謀の西郷隆盛に徳川家の人々に対する寛大な処分を行うならば、抵抗することなく江戸城を明け渡すと持ちかけました。

 

西郷隆盛は一身に責任を負い条件を飲むと答え、当時、100万人以上が住んでいた江戸の町は戦場となることなく、無血開城が実現したのです。勝海舟は「外交の極意は誠心誠意にある」を一番にしていました。「外交でごまかしは通用しない、真心で相手にぶつかるべきである」という姿勢を常に持ち続けていたようですね。

 

(2-2-5)交渉決裂時の備えも万全

史実では無事に無血開城となりましたが、勝海舟は交渉決裂時には戦うための備えもしっかりと行っていました。焦土作戦が用意されていて、概要は以下の通りです。

  • 江戸の民衆を隣の千葉に完全に避難させる。
  • 新政府軍を江戸城内に誘いこんで火を放ち、武器・兵糧を焼き払う。
  • 炎で相手を怯ませた上でゲリラ的な掃討戦をしかけた上で、江戸の街もろとも新政府軍を殲滅。

本作戦は1812年のロシア戦役で、ナポレオンのモスクワ進行を防ぐために採用された戦術を参考に立案されました。遂行するため、江戸火消し衆「を組」の長を務めた新門辰五郎に大量の火薬と共に放火の依頼もされていたとのことです。

 

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(3)東京都内に残る勝海舟のゆかりの地

東京都内にはまだまだ勝海舟のゆかりの地があります!ここでは代表的なゆかりの地をご紹介します!

 

(3-1)【両国公園】勝海舟・生誕の地

両国公園

施設名: 両国公園
住所:〒130-0026 東京都墨田区両国4丁目25-3

 

両国駅から京葉道路を超えて10分位の場所にある、勝海舟生誕の地の跡です。ここにあった父親の実家で生まれ7歳まで過ごしました。

 

子供の頃勝海舟は、従兄にあたる男谷精一郎(おだにせいいちろう)の直心影流の道場で剣術を学んでいました。師匠・男谷精一郎は剣の腕は勿論のこと、人格者でもあり、試合では3本中1本は必ず相手に取らせるというエピソードが残っており、「剣聖」と呼ばれる程の人物でした。

 

その為、剣のモニュメントはそんな逸話から来ているのもかもしれませんね。椅子は勝海舟が学んだ数々の学問を、両国公園内の看板には海を渡ったイメージである波風が描かれています。生誕の地は両国公園内にあります。

 

(3-2)【両国橋】勝海舟、餅を投げ捨てる

両国橋

施設名: 両国橋

 

江戸本所(墨田区両国)で旗本の子として生まれたものの、父は旗本でも役職がなかったので、貧乏な生活を送りました。極貧ながらも少年時代には剣術に打ち込み、寝る間も惜しんで稽古をしました。

 

結婚してからも貧乏な生活が続きます。ある時、正月に親戚にもらった餅を持って帰る途中、ここ両国橋で風呂敷が破れてしまいます。暗い夜道の中で餅を探すものの、大人になっても自立できていない惨めさを感じ、結局、拾った餅を川に投げ込んでしまいました。

 

結婚の際のお恵みも「大丈夫自立あたわず」と風呂敷ごと両国橋から餅を投げ捨てています。いずれにせよ勝海舟の我の強さを表すエピソードとして有名ですね。 

 

勝海舟が投げ捨てた餅は今も沈んでいるのでしょうか?スカイツリーやタワーマンションが見えるこの場所は、当時の貧しい勝海舟の心境の差を表すような佇まいをしています。

 

(3-3)【吾妻橋】偉業を称える勝海舟像

勝海舟像

施設名: 勝海舟像
住所:〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋1丁目23

 

右手を指差した勝海舟の像は、新しい日本の夜明けを目指した姿を表現したものです。

 

こちらは隅田川にも程近い場所にある墨田区役所のその前にある「うるおい広場」に建てられています。この勝海舟像は「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、勝海舟の偉業を称え、区民の方々を中心に「勝海舟の功績を後世に残す為に全身像を建てよう」という声で、全国規模で賛同者から銅像建設のための募金が集められました。

 

この銅像を墨田区の新しい歴史的観光名所として、江戸文化の漂う「墨田の魅力」を広く発信すべく、墨田区の数ある観光名所の一つとして位置付けられています。

 

(3-4)【洗足池公園】感銘を受けた場所に設けられた勝海舟の墓

官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に足を止め、その風景に感銘し、ここに別荘「洗足軒」を構えました。

 

生前から「富士を見ながら土に入りたい」という遺言を持ち、別荘裏の丘に墓を構えました。勝海舟の子孫が自家の墓に移した為、実際に墓の中には遺骨は入っていません。石塔の「海舟」の文字は、徳川慶喜のものと伝えられています。

 

昭和49年2月2日に区指定文化財に認定されました。洗足池の東側には、 勝海舟夫妻の墓と勝海舟が西郷隆盛の死を悼んで建てた留魂詩碑があります。

 

庭園内の池には、足こぎボートなどが貸し出されています。

洗足池公園

施設名: 洗足池公園
住所:〒145-0063 東京都大田区南千束2丁目

 

(3-5)【本郷】勝海舟が愛した和菓子屋・壺屋総本店

壺屋総本店は勝海舟が愛した和菓子屋として有名です。明治時代になった時に多くの和菓子屋が「徳川様にお世話になったので、明治政府には売らない」と閉店し、このお店も暖簾を下ろそうとしましたが「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから続けるように」と勝海舟がお願いをしました。

 

お店の中には勝海舟からの「神逸気旺(しんいつきおう)」(神頼みする事無く気力で進め)という文も飾られており、勝海舟の歴史を目と舌で味わう事ができます。特製の壺最中(つぼもなか)のさっくり香ばしい皮に濃厚な餡を味わいながら御覧ください。

 

施設名: 壺屋総本店
住所:東京都文京区本郷3丁目42?8
問い合わせ:TEL03-3811-4645
営業時間:平日9時〜18時 土曜:9:00〜17:00
定休日:毎週日曜日

 

(4)勝海舟の名言を紹介

勝海舟は生涯を通じて数々名言を残しています。代表的なものをご紹介します!

 

@「コレデオシマイ」
1899年(明治32年)1月19日に風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、21日死去した際の勝海舟最期の言葉です。

 

勝海舟はかねがね「死んだ時にはきっと夢から覚めた時と同じようなものだろう」と言っており、一時は日本を背中に奮闘した人生、ようやく肩の荷をおろしたような感慨があったことでしょう。

 

 

A「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張。我に与らず、我に関せずと存候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存(もうとういぞん)これなく候。」
福沢諭吉が書いた「痩せ我慢の説」に対する勝海舟の有名な返事です。命を賭けて信念を持ってやったことを学者・福沢諭吉ごときにとやかく言われる筋合いはないと言っています。行蔵とは「出処進退」(その職に留まるか辞めてしまうかという、身の振り方の意)、毀誉とは「悪口」と「称賛」と意味します。
つまり、「己の行動の責任は己自身にある。それを批判することは他人の自由であるが、私は私の道を進む。どなたにお示し頂いてもまったく異存はない。」という言葉です。

 

 

B「事を遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない」
自分の決意を遂げるには、頭を柔らかく、正直で一途になりなさいという意味です。

 

勝海舟の言う愚直とは、「誠心誠意を尽くす」という信念を表す意味であり、先走って目先の利益だけにとらわれず、常に自分と自分の将来を考えた真剣な態度が結果を出す一番の近道となることを説いています。

 

 

C「世の中に無神経ほど強いものはない」
言いたい人間には言わせておけば良いという意味です。勝海舟は自分の行いに揺るぎない自信を持っていた為、福沢諭吉や維新志士に「武士の裏切り者」と呼ばれても気にしませんでした。

 

批判を受け流して己の信念を貫く、そういったスタイルは現在にも必要なことではないでしょうか?  

 

 

D「急いでも仕方がない。寝ころんで待つのが第一だと思っています。」
ことわざにもある「果報は寝て待て」と同意語です。逆に、飛ぶ鳥を落とす勢いで跳ね上がるのは、現在は危険という意味です。慌てないで寝て結果を待つ姿勢には、勝海舟のマイペースぶりが現れていますね。

 

(5)今も残る勝海舟の血統

(5-1)バイクの「KAWASAKI」

1888年(明治21年)8月23日、徳川慶喜の十男として誕生した勝精(かつくわし)という人物がおりました。徳川姓が勝姓になった経緯は徳川慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れたことから。

 

小さな鉄工所を屋敷内に設け、1923年(大正12年)に1000ccの排気量の国産オートバイ「ジャイアント号」を製作させました。後にジャイアント号を制作したメンバーが目黒製作所(後に川崎重工業に吸収)を設立したことから、勝精は現在の「KAWASAKI」車の起源の一人と言われています。1932年(昭和7年)7月11日に死去した際、死因は当初脳溢血と報道されましたが、後に妾とカルモチンで心中自殺したと判明しました。

 

(5-2)ガラス工芸家の高山みな子さん

ガラス工芸家の高山みな子さんは勝海舟の玄孫(やしゃご)です。男爵家に嫁いだ海舟の娘、目賀田逸子の系譜で、5代目にあたります。現在では、ガラス工芸家やフリーライターとして活躍中。「勝海舟の会」顧問も務めております。

 

(5-3)国際結婚をした三男・梅太郎

勝海舟の三男として育てられた梅太郎は 当時珍しかった「国際結婚」をしています。相手であるクララ・ホイットニーさんとの間には6人の子供を持ちました。子供たちの日本名はいずれも勝海舟がつけました。

 

梅太郎は勝海舟の悪い部分の性格が遺伝したのか、いわゆる甲斐性がない人間でありました。勝海舟の死によって勝家に経済的に依存し続けることはできないと考えたクララ・ホイットニーさんは梅太郎と別れ、アメリカに帰国することを決意しました。

 

(6)まだまだある勝海舟のおもしろエピソード

勝海舟はプレイボーイ?

 

未亡人や女中などとの間に確認出来るだけでも8名の子を持ち、正妻と妾が共同生活をするという現在では考えられないようなことをしても、穏便に過ごしていたようです。勝海舟の懐の広さを伺えるエピソードですね。

 

また家が貧しかった為、自力で日蘭辞書を訳し、一部を自分のもの、残りを売った機転の効く逸話も有名です。

 

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