彦根城を観光する前に必ずチェックしたい15ヶ所の見どころ!
国宝!彦根城の見どころ15ヶ所を教えます! |
|
---|---|
彦根城は1600年の関ヶ原での戦いの後、徳川四天王にまで成長した井伊直政が石田三成と異なる政治を実現するため、佐和山城に変わる城として築城計画をしたことから誕生しました。今回はその彦根城の見どころをご紹介します。 |
築城計画をした井伊直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年に彦根城の死去してしまい完成する姿を見ることが叶いませんでした。その後、長男の直継が家督を引き継ぎ、在りし日に彦根藩が置かれました。
この彦根城は姫路城と共に遺構をよくのこしている城郭なので、世界遺産暫定リストに掲載されて多くの観光ツアーが組まれています。 彦根城は「VS大阪城」を想定して建造されましたが、一度も大きな戦を経験することなく明治維新を迎えることができたため、遺構を残すことができたと言えます!
(この記事は約4分で読めます)
目次
- (1)いろは松
- (2)埋木舎(うもれぎのや)
- (3)佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)
- (4)馬屋
- (5)鳳翔台
- (6)玄宮園
- (7)楽々園
- (8)山崎郭
- (9)観音台
- (10)西の丸三重櫓
- (11)天守
- (12)太鼓門櫓
- (13)時報鐘
- (14)天秤櫓
- (15)梅林
- 彦根城へのアクセス・行き方
いろは松
平成20年8月20日に景観重要樹木に指定されたのがこの「いろは松」です。かつて「いろはにほへと(いろは歌)」の文字数と同じ47本のクロマツ・アカマツが二代目当主井伊直孝によって植えられました。
現在でも33本が見事な佇まいを続けています。立冬の時期になりますと「こも巻き」と呼ばれる方法で害虫駆除を行っています。この「こも巻きは」冬の訪れを告げる風物詩となっております。
埋木舎(うもれぎのや)
井伊家の14代として生まれた井伊直弼が、13代彦根藩主になるまでの天保2年(1831年)以降の15年間、つまり青春時代を過ごした静かな屋敷です。「埋木舎」という名前は井伊直弼の命名であり、本来は「尾末町御屋敷」「北のお屋敷」という名前で呼ばれていました。
不遇の時代であった為井伊直弼自身が、
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」
という自身を埋もれた木に例えた歌を残しており、その意味から「埋木舎」という名前がつけられることとなりました。
外観は柳が植えられ、控えの屋敷として作られ大変静かで趣があります。直弼は気に触ることがあった際、柳を見て心を落ち着かせていたので、
「むっとして 戻れば庭に 柳かな」
といった歌も残されています。
芽が出るまでじっと待っていた直弼を想いながら見てみると、その心境を感じることが出来ることでしょう。
佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)
多聞櫓という名前は、戦国武将松永久秀が現在の奈良市に建造した「多聞城」から来ており、長屋のような形をしている櫓が目を引きます。いろは坂に並行した登城道に佐和口があり、枡形を囲むように築かれています。
多門櫓はその佐和口と枡形を囲むように出来ており、内部は7つの区域に分けられ中堀に向かって、三角形と四角形の狭間が前後に配置されています
馬屋
表門の外にある大変ストレートでシンプルな形をした建物が馬屋です。全国の近世城郭に残る馬屋としては大規模で他に類がなく、 国の重要文化財に指定されるほど。馬の収容数はなんと21頭で下屋敷である玄宮園やお浜御殿などでは馬場と呼ばれる調教場所もありました。
多数の著名な兵法家や武術家が在籍しており、戦のない時代を迎えても藩の中で稽古が行われました。神尾織部(かみおおりべ)の「新当流」「大坪流」「大坪本流」「八条流」など流儀が取り入れられ、馬術に磨きがかかりました。馬役と呼ばれる馬の管理・調教を仕事にする人間がおり、藩主やその子弟に馬術を教鞭しました。
鳳翔台
鳳翔台は周辺にソメイヨシノが植えられ、和菓子を味わえる人気スポットです。外の席では時代劇でよく見かける赤い和傘と長椅子が設置されており、春には満開の桜とともに美味を味わうことが出来ます。
メインである茶室は大変人気の場所で、ミニ茶話会を楽しむ方も。和菓子は彦根本町地元名産である抹茶と、和三盆という淡い黄色の黒砂糖のような風味の甘味をまぶし、白餡を包んだ柔らかな求肥を味わえます。
玄宮園
広々とした静かな池が9つあり、池の中や入江にかかる9つの橋が織りなす風景は大変美しいです。玄宮園の名前の由来は古代中国の宮廷から取られました。中国の瀟湘八景または近江八景を元に造られた説もあります。
楽々園
楽々園の原型は「御書院」「地震の間」「楽々の間」「雷の間」「新東西の間」など、江戸時代初期(1677年)に彦根城四代藩主 井伊直興行によって造られた下屋敷です。
「槻御殿」または「黒門外御屋敷」と呼ばれており、明治時代に「楽々園」という名称に定着しました。元々広大な屋敷であった為、直興が死没後、倹約令(財政の削減など、身分相応の生活をすること)発布により、縮小されました。その後、1813年(文化10年)の11代藩主井伊直中の隠居の際、現在の10倍の大きさとなりました。
12代藩主井伊直亮の手によってさらに改築が施され、現在の形になったのです。厳かな空間で煎茶の茶室としても、ますます注目されています。
山崎郭
山崎郭は山崎曲輪跡とも呼ばれ、かつては木俣屋敷が建っていた場所です。戦から凱旋した井伊直孝を出迎えました。木々に囲まれた静かな空間が広がっています。季節ごとに姿を変えるその姿は、訪れた方には様々な印象を与えるでしょう。物思いにふけたい、考えたい時など、ぜひしっとりとしたこの空間に佇んでみてください。
観音台
この観音台には往時産土神が祀られています。なお、この場には旧藩時代に出郭があり、合戦の際に質子を入れるため人質郭と呼ばれていました。今ではこの郭は取り払われています。
西の丸三重櫓
西の丸三重櫓は東、北においていわゆる「くの字」型をしており、天守閣に向かう敵のための備えとして作られました。その概要を紹介しますと、まず西に張り出している「出曲輪」との間にある尾根を切断し作られた空掘「大堀切」が目に入ります。
この構造によって、外部からの敵の侵入を高い確率で凌ぎました。建築様式を考察するにあたり浅井長政の拠点である小谷城を移したものとの説もありましたが、昭和30年代に行われた解体作業により、現在では否定されており非常に謎深いです。
この西の丸三重櫓に関わる人物として、井伊家の家老を努めた木俣守勝(きまたもりかつ)をあげることができます。井伊家の歴史を綴った「井伊年譜」を読み解きますと彦根城築城当初は、家老である木俣守勝に管理を託しており、毎月20日間この櫓に出務することを常としていました。
在りし日に木俣守勝はこの西の丸三重櫓にどのような想いを頂いていたのでしょうか…?
天守
1607年頃に完成した彦根城の天守は国宝に指定された「現存天守」なので、非常に高い歴史的価値を持ち観光客からの人気も高いです。在りし日には天守本丸付近には藩主の御殿である「御広間」、「宝蔵」、「着見櫓」なども連ねていました。21世紀を迎えた現在でも色褪せない優雅さを見せてくれます。
建築材を克明に調査した結果、彦根所の天守は「大津城の5階4重の旧天守」を移築してきたものである可能性が判明しました。これは井伊家の歴史を記録した『井伊年譜』に「天守は京極家の大津城の殿守也」と記されていたから分かりました。
太鼓門櫓
この太鼓門櫓も二の丸三重櫓と同様に謎が多く残されています。元々は、建築前に山の上にあった彦根寺の山門を移転したと考えられてきました。彦根寺には観音信仰とともに「巡礼街道」が存在し、こうした場所の慣習として納札を寺の建物などに打ち付けることが多く、この彦根城太鼓門櫓にはその釘の穴が多数残されており、彦根寺の山門を移築したという裏付けとされていました。
しかし昭和30年代の解体作業によって移築前の建物も、どこか別の城門であったことが判明しました。結局のところどこの城門だったのかは判明せず、今も謎のままとなっています。
そしてその名前の元となった「太鼓」ですが、くの字に造られた櫓の中に一般の城では珍しく太鼓が置かれていたという説があります。太鼓の音が大変響くので、敵の侵入をいち早く警告出来るという便利性と考えられておりますがこちらも未だ解明されておりません。
時報鐘
環境庁の「日本の音風景百選」に認定されているのがこの時報鐘です。元々、築城当初は鐘の丸に設置されていましたが、より遠くに響かせるために太鼓門付近の高台に移転されました。
現在の鐘は弘化元年である1844年、12代藩主井伊直亮によって発注されたもので、毎朝3時間起きに5回鳴らされるこの鐘の音は「お山の鐘」として市民に愛されており、生活サイクルにも組み込まれています。この鐘の音で起床する方も、中にはいらっしゃるかもしれませんね。
天秤櫓
その名の通り、荷物を吊り下げた天秤のような佇まいで優雅な景観を見せてくれます!格子窓の数が違うなど、厳密に左右対称ではありませんがバランスがとれているので観光やツアーで訪れた皆様の目を楽しませてくれます。
天秤櫓は構造も複雑なので見応え抜群!天秤櫓の下には尾根を切り取った「大堀切」という箇所があり、この大堀切には橋がかかっています。この橋がなければ高い天秤櫓を登ることが出来ないため、非常に大切なポジションとなっております。
大堀切丸から天秤櫓を見上げると、右手に「打ち込みハギ積み」左手には「落し積み」と呼ばれる石工達の美しい造形を見ることも出来ます。「打ち込みハギ積み」とは表面の石の角や面を潰し平らにし、隙間には詰石をしたもので関ヶ原の戦い以降に一般化されました。「落し積み」とは長方形の石を隣の石に寄りかかるように斜めに落とし込んで積む方法です。江戸時代後期(1800年代)によく見られる手法です。
梅林
1950年に彦根城が新日本観光地百選に選ばれたこと記念し植えられた 400本に渡る大変見事な梅林です。白梅や紅梅が咲き乱れ、例年では3月下旬に開花します。中でも、昭和43年親善都市である水戸市から送られた「しだれ梅」が見どころです。
彦根城へのアクセス
電車で訪れる場合
JR彦根線で『彦根駅』から行かれることを推奨します。
自動車で訪れる場合
名神高速彦根ICから10分程度で到着します。土日祝は駐車場が非常に混む可能性があるので可能な限り早い時間達に到着するよう、計画されることを推奨します。
『一般駐車場』
二の丸駐車場
桜庭駐車場:普通70台 年中無休 8:30〜18:00 1日400円
大手前駐車場:普通25台 年中無休 8:30〜18:00 1日400円
『大型駐車場(観光・マイクロバス)』
いろは松駐車場:普通70台 年中無休 8:30〜18:00 1日1500円
彦根城の住所
〒522-0061 滋賀県彦根市金亀町1?1
彦根城観光におススメのホテルとツアー!
ホテル予約サイト「トリバゴ」 | クラブツーリズムの彦根城観光ツアー |
---|---|
「ホテル?トリバゴ」のCMでもお馴染み!彦根市周辺の格安ホテルから豪華ホテルまで予約が可能!
|
観光だけでなくグルメを堪能したり、その他東京観光も含まれており非常にお得なツアー内容!
|
徳川家ゆかりの旧江戸城(現皇居)関連情報!
皇居(旧江戸城)観光した後、お疲れの時にぴったりのレストランをご紹介。皇居(旧江戸城)外苑は「丸の内」と呼ばれている地域でもあり名店が沢山!歴史と共にグルメを楽しむことも可能です。とっておきの味と、素敵なお店をぜひご堪能ください。 |
一言で「皇居」と言っても皇居には東御苑、一般参観で観れる皇居内、外苑など他の観光スポットにはない実に多くの魅力あふれる建造物が存在しています。今回はそんな魅力あふれる皇居の観光スポットをお伝えします♪ |